泊塚原町の歴史

戦前この付近一帯は約6000本の梅が咲き誇る日永の梅林として知られていました。 今では宅地造成がすすんで往年の風情を楽しむことはできないが、それでも約300本の梅の花を咲かせ春の訪れを告げています。 そして南部丘陵公園で毎年、復活梅まつりが開催されています。


昭和30年、旧海燃跡の転用が決まり、四日市は石油化学工業都市へのスタートを切った。塩浜をはじめ日永、河原田の内陸部にかけてもつぎつぎと関連工場が立地し34年4月には全面的に創業を開始したのです。 しかしこれらコンビナートの操業とともにばい煙等による大気汚染がめだつようになり、公害問題が発生したのです。

そして昭和34年9月26日伊勢湾台風がこの地を襲ったのですが当時はほとんどこの地には民家がなかった。
味の素東海工場社宅ができてから、社員の方々が泊塚原で土地を買って家を建てたり、また塩浜・曙地区などの公害地からこうした緑の中に住宅を建て引っ越す人がふえてきたのです。
 
平成4年1月から県立総合医療センター建設工事が着工し平成6年10月に開院すると病院のすぐ近くということで泊塚原町では家の新築が続き、今では隣接の梅が丘町とともに病院と小学校と公園に近いことから地価も上がってきました。

町内の自慢は「ふれあいセンター」です。町の一角に望が丘という新しい団地が出来たとき建設会社のご好意で泊塚原町ふれあいセンターが建設されました。 今では町民の行事、会議、カラオケなどに主に使われています。 そして平成19年5月末日現在、26組350世帯1100人が住む町に発展変貌しました 

 
泊塚原町ふれあいセンターと泊塚原自治会防災備蓄倉庫


泊塚原は県立総合医療センターの周囲にある

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